南方のシルクロードは「蜀・身毒道」と呼ばれ、これは横断山脈地帯を経由するため、山峡シルクロードとも呼ばれます。紀元前4世紀頃、中原が分裂していた時代に、蜀の地(現在の四川省西部平原)と身毒との間にシルクロードが開かれました。これは2世紀以上にわたって続き、中原の人々には知られていなかったため、一部の人々はこれを秘密のシルクロードと呼んでいました。張騫が西域に行った際、大夏で蜀の布を見つけ、身毒から瓊竹の杖が伝わっているのを発見し、漢の皇帝に報告しました。元漢の皇帝は張騫に「蜀・身毒道」を経由させ、元年の紀元前122年に派遣しました。犍為(現在の宜賓)から人々を五つのルートで追跡させました。一つは芒(現在のミャンマー)へ、二つはミャンマーを経由し、三つは(現在の漢源)へ、四つは邛(現在の西昌)へ、五つは差(現在の宜賓南西)へ向かいました。使者は昆明で足止めされました。
南方のシルクロードは、霊関道、五尺道、永昌道の三つの道から構成されています。シルクロードの東西の支線は成都から始まりました。東の支線は岷江に沿って博道(現在の宜賓)へ、石門関を通り、朱提(現在の昭通)、漢陽(現在の赫章)、味(現在の曲靖)、滇(現在の昆明)を経て葉楡(現在の大理)へ至りました。西の支線は成都から邛(現在の邛崃)、卬(現在の雅安)、(現在の漢源)、邛(現在の西昌)、塩源、青蛉(姚)、闡(現在の祥雲)を経て楡葉へ、道教の精神に従って進みました。山地では、陸路と海路に分かれて身毒へ向かいました。
中国南部のシルクロードは2000年以上続きました。特に抗日戦争中、後方地域の海路が遮断されたため、シルクロードの南西ルートに沿って開かれたビルマ道と中印道は、輸送において前例のないほど活発になり、後方地域を支える生命線となりました。